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『世界の調律』 サウンドスケープとはなにか 平凡社 1986年
R・マリー・シェーファー著 鳥越けい子・小川博司・庄野泰子・田中直子・若尾裕訳 |
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数年前、世界の民族音楽の楽器の調律(チューニング)について書かれた本を探していてうっかり出会って しまった一冊。
本書のいう「世界の調律」とはサウンドスケープのこと。サウンドスケープとは著者のマリー・シェーファーが提唱した概念で、視覚ではなく、聴覚から環境をとらえていこうという発想だ。それは都市作りをはじめとする様々な環境作りに応用されるべきだというもの。サウンドスケープは科学・社会学・芸術をつなぐ媒体となる。
本書はまた、音の文化史としての性格ももつ。音が神の存在を関知する媒体だった古代から、どういう位置 で存在してきたかを歴史を追って辿っている。 中世ヨーロッパでは、教会の鐘の音が届く範囲がその教会の管轄だったなど、興味深く、且つ現在の都市の音環境がいかにローファイであるかを改めて感じさせられる。
産業革命が音環境を変えるひとつの大きな転機となり、都市は機械音に覆われるようになった。眼とは違って意図的に情報をシャットアウトできない耳は危機的状況に瀕している。と同時に、その耳の特性は視覚よりも、より偶発的な事態、ハプニングをキャッチする可能性があるのではないだろうか。
音を使った新しい表現を模索する人にとってはバイブルとなりうる一冊。(a) |
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『都市の音』 吉村弘著 春秋社 1990年 |
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本書は現代の都市の音環境について様々な角度から再考してみようというもの。ローファイ化が進む現代の都市の音環境を騒音として嘆くだけではなく、そこに意外な魅力や喚起力を見いだそうとしている。
筆者はテレビなどのメディアが「都市のスピード感」をかたちづくっているという。テレビやラジオをつけていると、ろくに見も聞きもしないのにスピード感だけがやたらと伝わってくる。誰かが言ってた「テレビひとつ消すのにも勇気がいる」とはまさになんとなく与えられた都市のスピードから自分のテンポに戻るのに戸惑うのではないか。
その都市のスピード感はポップミュージックにも新しい影響を与えると指摘している。都市の音喧噪の中でしか生まれてこない文化もあるということ。都市の騒音が問題視される一方で、その喧噪に慣れてしまい、それが無くなると物足りなさや不気味さを感じてしまう人たちがいる。
本書では様々なサウンドアーティストについても触れている。街を舞台にしたサウンドインスタレーション(音響装置)、サウンドスカルプチュア(音響彫刻)などの方向性はどうやら大きく二種類に分かれるようだ。都会の中に自然の音を取り込む方向と、都市がもつ音環境を再構築して新しい音メディアを立ち上げようという方向だ。
アメリカのアーティスト、ビル・フォンタナは都市や自然の音を採取し、それを別の場所や環境に再配置する方法で新たなアンビエントを演出する作品を手がけている。ベルリンでは廃墟と化した古い駅舎にスピーカーを配置し、現在もっとも混雑する駅からのアンビエント・サウンドが流された。廃墟の駅にかつての喧噪を再現するかのような音空間が出現したという。
アーティスト達は様々なコンセプトと手法を持って都市とアートを結ぶ。
最近「いやし」という言葉が蔓延し、アンビエント・サウンドが台頭してきたのもカオスに向かう都市の騒音に対するひとつの反動なのでは、なんて少し思った。(a) |
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『江戸の音』 田中優子著 河出書房新社 1988年 |
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この本では、主に江戸の三味線音曲に触れながら、古来からの日本人の音というものに対する感覚を文学などを通して描いている。
日本人の、虫の音や風の音など、自然の音を楽しむという感性は独特のもので、西洋ではあまり考えられないらしい。このことから「音」といわゆる「音楽」との境界線が昔の日本ではあまりはっきりしてなかったのではないかと想像できる。これはまた、音楽が舞台のためのものではなく、庶民の間で日
常的に聴かれるものであったことと関係があるのかもしれない。今日の音楽ホールやライブハウスと違って、楽音以外の騒音の入り込む余地があったのだろう。偶然的に入ってしまった音をも楽しむ感性があったのだろうか。
また、三味線のサワリ技法や、尺八の構造(音が一番出にくいような構造らしい)・音色などから、クリアな音よりもどちらかというと濁った音を好んだ傾向がうかがえる。
故・竹満徹との対談では、日本人は「遠音」を好んだのではないかということに触れている。遠くで鳴っている鳥の声や雷の音などを情緒として楽しんでいたようだ。これもまたローファイな今日の都市空間ではちょっと難しいことだ。大きな幹線道路をひっきりなしに通る車の音が、なんとなく波の音みたいに聴こえて心地よく感じることはあるけれど、それはまた別の話。
歌舞伎の舞台における音の表現についても触れている。太鼓がドン、ドン、ドン、ドンというリズムで鈍い音をさせれば雪。同じ太鼓でもドロン、ドン、ドン、ドロン、ドロンという軽い打ち方なら雨が降っている、というように、音の記号化、一種の約束事に基づいて歌舞伎は成り立っているということ。この音の記号化もまた、日本人的感性・音編集術なのだろう。
この本を読んで、文学・漫画等における擬音表現はどうなのだろう?と、ふと思った。音と音楽を切り離して考えなかった日本では、ひょっとしたら擬音もまた多様なのではないかなと。(a) |
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平安京 音の宇宙 中川真著 平凡社 1992年 |
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本書は平安の文学表現を通して、当時の音風景をシミュレートしてみるというものだ。
まず思うのは当時、音というものが情景・心象風景と強く結びついていたということ。特に源氏物語などでは「ギー」とか「ガラガラ」とか擬音が独立している今日とは違い、音が情景、あるいは心情を表す一つの要素になっている。登場人物の悲しみであったり、恐怖であったり。意味のない音は存在しないというか、何かしらの心情表現になっていることが、今日の小説などと比べて多い。
清少納言の枕草子では、「夜に鳴る音がすばらしい」という記述が多々みられる。古代・中世の人々にとって夜は神々や物の怪・精霊の支配する世界。目には見えないそれらが音を媒体として交信してくる時代である。今日よりずっと夜の音には敏感だったのだろう。音は「気配」だったのだ。
2章の「カオスの音」では永長の大田楽を例にあげ、「ノイズの意味」について考える。ノイズ=騒音ではなく、儀礼や儀式という脈絡のなかでは積極的な働きをするということ。「カミ」という見えない存在に対し、何かをアピールするには大音量が必要だ。そしてその大音量が止んだ後の沈黙もまた必要だということ。大音量・沈黙という対立する二つのものが共に日常から非日常へと移行する要素となる。そして大田楽をはじめとする民衆の大音量は時に権力者達を脅かすエネルギーとなる。
3章の「音のポリティクス」では、昭和天皇崩御の際の「六日間の歌舞音曲を伴う行事を差し控える」という 政府の要請による街の厳かな様子を描き、中世からの音と政治の結びつきを考察している。天皇や将軍が死ぬと楽器の演奏が何日間か、時には何ヶ月も禁じられたようだ。権力者によってコントロールされた都市の相貌は、その権力の波及の証明でもあった。権力者は音のもつ底知れぬパワーへの畏怖とともに、音を統制することの社会的・政治的意味深さをよく知っていた。
音による大衆の統合力・集中力ってホントに凄い。大きな祭りなんか見るとそう思う。この本では人がそうしたトランス状態になるための一番の要素として打楽器の重要性について書かれている。太鼓って人の記憶の最初の音に一番近いんだろうななんて思う。(a) |
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『サウンド・エデュケーション』 R・マリー・シェーファー著 春秋社・1992年
鳥越けい子・若尾裕・今田匡彦訳 |
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同ブックレビュー、『世界の調律』サウンドスケープとはなにか)の概念に基づいて綴られた応用編といったところであろうか。100の設問からなるマニュスクリプトで完成されている本書は、まさに著者が展開してゆくワークショップを体験しているかのような錯覚に陥ってゆく。
「環境を知るために、自分たちの感覚を実際に使う習慣」を確立させることをテーマとして「聞こえた音をすべて紙に書き出す」という課題からはじまり、最終課題では「音の宝探し歩き」と題し、参加者を音だけを手掛かりに町の特定の区域内で正しい方向を自分で探していくような散歩につれだす、というところにまで発展してゆく。もちろん実際に行われたレポートとしての回答例も挙げられているのだけれど、この課題を日本人が、というはもとより日本で行ったとしたら、一体どのようなレポートが出来上がるのかととても興味深い。
音が科学の領域に組み込まれてしまってからというもの、音の持つ感情や記憶をかきててる力が衰退してしまっている今日に、音楽教育の一環として本書の課題が活用されるようになったとしたら、本来音の持つべく多くの「想像力、感情をわきたたせ記憶をよみがえらせる力」を再び持てるようになるのでは、と想像せざるを得ない。(m) |
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『ポピュラー音楽小事典』 mini encyclopediaー2 PARCO出版局・1973年 |
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古本屋で見つけて「ん、この感じは!」と思い奥付を見てみたらやはり。発行はPARCO出版局だけど制作編集は工作舎によるもの。要所要所に工作舎らしい流石な相関図のようなものが載っている。この感じ、やはり好きなのです。規格を相当に無視したサイズも魅力的。発行は1973年。
73年というとジミヘンもジャニスもジム・モリソンもブライアン・ジョーンズももういなくて、ビートルズもすでに解散後。個人的にはいわゆるロックの時代に少ーし影が射し始めた頃という印象だろうか。
この本はポピュラー音楽小事典と言いつつも映画音楽からクラシック・民族音楽・民謡・各種音楽用語・楽器の奏法など守備範囲は幅広い。
邦・洋問わず載っているのもおもしろいところ。「フランスギャル」「フリー」「古井戸」「ふるさと(童謡)」「ブルース」「ブルーコメッツ」などの項目がひとつのページに載っている事典というのは昨今見ない気がする。
それぞれのグループやヒット曲に対する現在とはまた違った、当時の批評がうかがい知れる一冊。(a) |
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